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岐阜地方裁判所 昭和62年(ワ)438号 判決 1992年1月30日

原告

宮内太蔵

右訴訟代理人弁護士

蓑輪弘隆

横山文夫

安藤友人

鷲見和人

原田彰好

被告

甲野甲之進

被告

早川榮一

被告

野津正雄

被告

土田博

被告

大槻信子

被告

奥村幸治

右被告ら訴訟代理人弁護士

後藤武夫

主文

原告の請求をすべて棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一原告の請求

被告らは原告に対し、各自、金一五〇〇万円及びこれに対する被告土田博については昭和六二年九月一三日から、被告大槻信子については昭和六二年九月一七日から、その余の被告四名については昭和六二年九月一二日から、各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  当事者等

(一) 原告は、昭和二九年一〇月二〇日現在の社団法人岐阜病院(当時は岐阜精神病院、以下「病院」という。)に看護員として採用され、同四三年一二月庶務課長に、同五〇年一月医事課長に任命された。そして、昭和四四年一〇月社会保険労務士の資格を取得し、同三八年八月から同五〇年一〇月まで病院の社会保険委員(岐阜県知事委嘱)であった。

(二) 被告甲野は、昭和四四年事務次長として病院に就職し、同年一二月病院の専務理事に就任した。

(三) 被告早川は、昭和三二年四月管理課事務員として病院に就職し、同四三年一二月に会計課長となり、同五四年一一月に庶務課長を兼務した。そして、昭和五七年五月に事務次長に、同六〇年七月に事務長に各就任した。

(四) 被告野津は、昭和二八年病院の看護員となり、同四三年一二月業務課用度主任になったが、同四八年二月降格処分を受けて臨床検査課勤務となり、同年五月には看護員として病棟勤務となった。そして、同五〇年一月庶務課に配転され、同五〇年一〇月には岐阜県から社会保険委員を委嘱された。同被告は、昭和五二年二月庶務主任になり、その後医事主任を経て、同五七年五月医事課長になり、同六〇年五月定年退職し、その後も嘱託看護員として病院の病棟に勤務している。

(五) 被告土田は、昭和三六年八月病院の従業員となり、同四八年九月医用電気科主任に、同五四年一〇月医用電気科長に各任命され、その後更に栄養課長、医事課長(兼務)等に任命され、同六一年に兼務の栄養課長を解かれた。同被告は、昭和五四年四月当時、岐阜精神病院労働組合(以下「組合」という。)の執行委員長であった。

(六) 被告大槻は、医師であり、昭和二五年に病院に勤務し、同四八年八月医局長となり、同五八年六月定年退職し、退職後三年間病院の嘱託医師をし、その後も非常勤医師として病院に勤務している。

(七) 被告奥村は、昭和四七年二月に看護員として病院に就職し、同五四年四月に医事課に配転された。同被告は、右配転当時組合の副執行委員長であった。同被告は、その後庶務課に配転され、庶務主任を経て、昭和五九年一〇月庶務課長になった。同被告は、被告早川の義弟である。

(八) 病院には、労働協約に基づき、病院側選出又は任命による委員四名と組合側選出又は任命による委員四名(任期は一年)とで構成され、労働条件その他についての苦情の申立てを受ける苦情処理委員会が設置されている。同委員会は、右苦情の申立てを受けたときは、中立公平の立場で調査判断することが協約上の義務とされている。そして、被告甲野及び同野津を除くその余の被告四名は、昭和五四年当時、いずれも右委員であった。

2  原告に対する諭旨解雇とその後の経過

(一) 原告は、昭和五四年四月六日付けで病院から諭旨解雇する旨の意思表示を受けた(以下「本件解雇」という。)。

(二) 原告は、昭和五四年五月、岐阜地方裁判所に対し、本件解雇の無効を主張して、病院を相手に地位保全の仮処分を申請し(同裁判所同年ヨ第一七六号事件)、同年六月五日、地位保全の認容決定を受けた。

(三) 病院は、昭和五四年六月一二日、右仮処分決定に対する異議を申し立て、右異議事件(岐阜地方裁判所同年モ第三九一号事件、以下「前異議事件」という。)は、昭和六二年七月一五日、原告と病院の間で和解が成立し終了した。この間、病院は原告に対し、昭和五五年一月三一日付けで予備的解雇の意思表示をした。原告は、病院を被告として解雇無効確認等請求訴訟(岐阜地方裁判所昭和五五年ワ第一八二号事件)を提起し、さらに、給料差額仮払い仮処分(同裁判所昭和五六年ヨ第六四号事件)を申請し、認容決定を得た。

3  被告甲野が原告の排除を謀るに至った経緯

(一) 原告は、昭和四七年一二月ごろ、ボイラーの不正購入問題に端を発した病院業務課の汚職問題に取り組み、病院の浄化と不詳事再発防止のため実態を調査し、病院と折衝したが、調査の進展に伴い、業務課長乙中乙治の非行が判明し、同課長と昵懇の間柄である被告甲野についても、黒い噂が流れていた。

右乙中課長は、昭和四八年一月一九日、被告甲野の意を受けた被告早川の説得により、依願退職を申し出たが、原告は、これを軽々に受理すべきではなく、事案を徹底的に解明し、再発の防止に努めるべきことを主張した。ところが、被告甲野は、これを無視し、理事会決定として、即日右退職願いを受理した。

組合は、翌一月二〇日、乙中課長を解雇すべきことを決議し、被告甲野は、同月二六日、組合との団体交渉において、「理事者一同は今回のことに対し反省するとともに将来自戒し、病院の明朗化を誓う」などと記載した誓約書を交付し、これによって乙中汚職問題は一応決着した。

(二) ところが、被告甲野は、前記乙中汚職問題に関する原告の前記言動を同被告への反逆ととらえて、原告を激しく憎悪するようになった。そして、その後も原告が前記誓約書が履行されるかどうかを見守っていたので、常勤理事として理事会を支配していた被告甲野は、原告を病院から排除して、原告に報復しようと考えるようになり、それ以後些細なことでも因縁をつけて原告の責任を追求するようになり、昭和五〇年一月、原告を閑職の医事課長に左遷した。原告は、同年一〇月、岐阜県から委嘱されていた社会保険委員を解嘱され、かわって、被告野津が同委員を委嘱された。さらに、被告甲野は、昭和五二年二月、前記汚職事件当時乙中課長の下で用度主任の地位にあり、右事件に関連して懲戒処分を受けた被告野津を庶務主任に起用した。

右の経緯をみれば、被告野津において、被告甲野に感謝し、同被告のために進んで尽力しようと考えるようになったのは当然であり、また、前記乙中汚職事件追求の中心的存在であった原告を憎悪していたことも容易に推認しうるところである。

(三) こうした折の昭和五四年一月五日、病院の嘱託看護婦西部志ようがクモ膜下出血により病院近くの河野外科に入院したが、被告野津は、これを労災であるとして、療養補償給付たる療養の給付請求書を即日同外科へ提出した。ところが、同年一月一〇日に西部が死亡し、岐阜労働基準監督署からは労災と認定されなかった。

原告は、右請求書に西部の病気の原因としていかなる事実が記載されているのかと思い、翌一月一一日、河野外科にそのコピーを依頼したところ、同月一六日、このことを知った被告野津は、自己の職務に関する干渉と受け取って被告甲野に相談した。

4  被告らの不法行為

(一) 被告野津から相談を受け、原告を追放する好機が到来したものと考えた被告甲野は、真実の意図を隠蔽し、解雇の正当性を装うため、被告野津をして、苦情処理委員会に原告についての苦情を申し立てさせ、同委員会をして、原告を解雇すべきであるとの決定をさせた上、病院の理事会にその旨の意見具申をさせ、理事会が原告を解雇せざるを得ないようにさせようとした。そして、被告甲野は、被告野津に苦情処理の申立てをすることを求め、被告野津は、これに応じた。

(二) 続いて、被告甲野は、苦情処理委員会の委員であった被告早川、同土田、同大槻及び同奥村らに原告解雇の意図とその手順を説明し、被告野津の申立てに対し、苦情処理委員会で意思統一して原告を解雇すべきことを理事会に具申するように協力を求めた。被告早川、同土田、同大槻及び同奥村は、中立の立場で公平慎重に調査、判断、決定をすべき苦情処理委員会の委員でありながら、右要請に応じて、被告甲野及び同野津らと協議し、原告には解雇事由がないのに、苦情処理委員会において、原告解雇の意見書を提出し、これによって原告の解雇を理事長に要求することを共謀した。右被告四名が被告甲野及び同野津とこのように共謀した事情は、次のとおりである。

(1) 被告早川は、被告甲野と親交があり、前記乙中業務課長とも昵懇であった。そして、同被告は、前記乙中汚職事件当時会計課長であり、乙中課長のいうままに、疑問があるにもかかわらず黙認して病院の金員を支出していた。そこで、原告において、当時同被告の責任も問題にしていたから、同被告は、原告に敵意を抱き、原告に対する報復を考えていた。また、同被告は、将来の昇格に原告の存在が極めて不都合であったことから、被告甲野に次いで原告の解雇に精魂をかたむけた。

(2) 被告土田は、右乙中課長の腹心の子分であり、病院の工事を身内の企業に発注させたり、無資格でレントゲンを操作するなどしていたので、原告において、昭和五一年一月と翌五二年一月に文書で病院にその中止を求めたことがある。そのため、同被告が自己の地位を危惧して原告に敵意を抱き、かつ、乙中課長のために報復を考えていたとしても不思議でない。

(3) 被告大槻は、昭和五一年二月、病院の院長の指示により、原告を診断していないのに、外来処方箋を作成して病院の薬局に調剤を指示した。そこで、原告において、昭和五三年六月ころから同被告に右事情を問い合わせたりして、これを追求していたので、同被告は、これを根にもっており、また、院長や被告甲野に迎合していたものである。

(4) 被告奥村は、義兄の被告早川に同調し、原告が排除されたあとは事務員になることを希望していた(同被告は原告が解雇された当日に医事課に配属された。)。同被告は、乙中汚職事件が問題になっていた昭和四八年一月二〇日の組合大会において、原告が組合執行部の依頼を受けて右事件の調査結果を報告した際、被告土田と交々原告に強く文句をつけた。

(三) こうして、被告野津は、昭和五四年一月一九日付け訴状と題する書面をもって、苦情処理委員会に原告についての苦情を申し立て、原告の処分を求めた。その内容の要旨は、前記西部の労災に関して被告野津が取り扱った事務について原告が不当に干渉したことは許されないから、真相の糾明と原告に対する処置を求める、というものであった。

右申立てを受けた苦情処理委員会は、右申立てがされたこと、委員会を開催したこと及び理事会への意見具申等一切を原告に知らせず、また、原告の弁解を一言も聴かないまま、「原告に対する処分は非常にきびしいものでなければならない」との決定を全員一致でし、同年二月八日、苦情処理委員であった被告大槻、同早川、訴外高瀬正隆(当時庶務課長)及び同矢田孝好(当時臨床検査課長)が連名で、原告の処分については「しっかりした処置を願いたい旨申し述べた」とする文書を作成し、病院理事長に提出した。

(四) 被告土田及び同奥村は、ほか二名と連名で、昭和五四年二月九日、原告を処分できない理事者の姿勢は許されないとする内容の文書を作成し、これを理事長に提出した。

(五) 苦情処理委員会は、その後も前記意見具申に対して理事会から回答がなかったので、昭和五四年二月二四日、原告に対しては諭旨解雇以上の処分でなければならない旨記載した再具申書を作成して理事会に提出した。

5  本件解雇との因果関係

その後、病院は、原告を一度審尋しただけで、前記のとおり、昭和五四年四月六日付けで原告を解雇する意思表示をしたが、これは、苦情処理委員会の右のような強い要求に従ってされたものであり、被告らの前記共謀及びそれに基づく解雇要求と病院のした本件解雇との間には因果関係がある(昭和五四年当時、病院内は事務長を兼務する被告甲野の支配体制が確立されており、苦情処理委員会の委員は、全員が同被告の意のままになる存在であったが、原告は、本訴を提起するに当たって被告とすべき相手を絞ったにすぎない。また、理事会も、被告甲野が然るべく進言し主張しさえすれば、同被告の意図するままに決定してしまうのが実態であり、ただ、原告を解雇する場合、対外的にその正当性を装う必要上、苦情処理委員会の意見具申を受けて本件解雇を決定したにすぎない)。

6  本件解雇の効力

病院のした本件解雇の意思表示は、以上の経緯に基づきされたもので、極めて些細なこと、形式的なこと、事実に反したことを挙げて原告を解雇するというもので、正当な事由がなく無効なものであった。

7  原告が本件解雇によって受けた損害

(一) 慰藉料 一〇〇〇万円

原告が二四年五か月にわたり勤務した病院を解雇されたこと、しかもそれが私的な報復的解雇であること、本件解雇により収入がなくなり、大学在学中の長女が学業を断念しなければならないのではないかと深刻に苦悩したこと、町内において肩見の狭い思いをしたこと、在職中関係した官庁にも解雇の事実が知れて名誉を失墜したこと等、原告が受けた精神的苦痛は甚大であり、慰藉料は一〇〇〇万円を下らない。

(二) 弁護士費用 六五六万円

原告は、弁護士を代理人として、病院に解雇の撤回を求めたが、病院がこれに応じなかったため、成田薫弁護士及び成田清弁護士に依頼して前記2(二)の仮処分を委任し、前異議事件や本案事件では山田幸彦弁護士にも依頼して同事件の遂行を委任し、その着手金及び報酬金として、成田薫弁護士及び成田清弁護士に対しては合計二三一万円、山田幸彦弁護士に対しては合計四二五万円を支払った。

8  よって、原告は被告らに対し、連帯して、前記損害金一六五六万円の内金一五〇〇万円及び訴状送達日の翌日(被告土田博については昭和六二年九月一三日、被告大槻信子については昭和六二年九月一七日、その余の被告四名については昭和六二年九月一二日)から、各支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する被告らの認否及び反論

1  認否

(一) 次の事実は認める。

(1) 請求原因1、2の各事実。ただし、被告大槻が医局長になったのは昭和四五年八月である。

(2) 同3の事実について、(一)のうち、昭和四七年一二月ごろに原告が乙中業務課長の汚職の有無を調査したこと、昭和四八年一月一九日に同課長が依願退職したこと、その折被告早川が同課長に退職願を提出するように促した経緯もあったこと、病院の理事会が同課長の退職願を即日受理したこと、昭和四八年一月二六日に理事会(被告甲野個人ではない。)が原告主張の内容のメモ(誓約書ではない。)を交付したこと、そして、乙中汚職事件が決着したこと、(二)のうち、昭和五〇年一月に原告が医事課長になったこと、同年一〇月に原告が社会保険委員を解嘱され、その後任に被告野津が委嘱されたこと、昭和五二年二月に被告野津が庶務主任になったこと、(三)のうち、昭和五四年一月五日、病院の嘱託看護婦西部がクモ膜下出血により河野外科に入院したこと、被告野津が療養補償給付たる療養の給付請求書を同日同外科へ提出したこと、同年一月一〇日に西部が死亡したこと、結果として労災とは認められなかったこと、原告が河野外科に右請求書のコピーを依頼したこと、同月一六日に被告野津が原告の右行為を知ったこと。

(3) 同4の事実について、(三)ないし(五)のうち、被告野津が昭和五四年一月一九日付けで苦情処理委員会に対し原告についての苦情を申し立てたこと、その内容の要旨がおおむね原告主張のとおりであったこと、原告が苦情処理委員会で弁解したことがないこと、苦情処理委員会で「原告に対する処分は非常にきびしいものでなければならない」との決定が全員一致でされ、その旨病院理事会に具申されたが、理事会から回答がなかったこと、そのため、苦情処理委員会が原告につき諭旨解雇の処分を適当とする具申書を再度理事会に提出したこと、同年二月八日に被告大槻外三名が原告主張のような文書を病院に提出したこと、昭和五四年二月九日に被告土田外三名が原告主張のような文書を病院に提出したこと。

(4) 同5の事実のうち、病院が原告から事情聴取したこと及び昭和五四年四月六日付けで原告を解雇する意思表示をしたこと。

(二) その余の請求原因事実は争う。

2  反論

(一) 原告は、被告らが共謀して不当に原告の解雇を要求し、そのことと病院のした本件解雇との間に因果関係があると主張する。しかしながら、そもそも苦情処理委員会は、病院とも組合とも独立して存在する機関であり、病院側四名と組合側四名の計八名で構成されているところ、当時の組合側委員には、被告土田及び同奥村のほか、深尾及び小川がいたから、組合側委員が被告野津の救済申立てを取り上げて苦情処理委員会に諮るためには、これらの原告のいう共謀のない二人の委員の賛成も必要であったことになる。のみならず、苦情処理委員会の病院側委員には、被告早川及び同大槻のほか、矢田及び加藤(第二回目からは高瀬)がいたから、原告のいう共謀の意図したところを苦情処理委員会で採択させるには、原告のいう共謀のない四名の委員の賛成も必要であったことになる。そうであれば、苦情処理委員会が全員一致で原告には諭旨解雇以上の処分が相当であると判断し、その旨理事会に要望したことは、独自の機関である苦情処理委員会の独自の意思決定であり、すでにこの段階で、原告のいう共謀と病院の原告に対する処分との間に、相当因果関係は存しない。

(二) 次に、苦情処理委員会は、組合員の病院に対する労働条件等の苦情の処理を目的とする機関であり、その権限も責任も苦情処理の範囲に限定されている。そのため、被告野津の苦情申立てについても、同委員会の処理は、理事会に対して原告の処分の要望を提出することで終わっており、実際に原告を処分するか否かは、病院の理事者が独自に判断する事柄である。そして、当時の病院理事は、被告甲野外四名であったから、少なくとも被告甲野のほかに二名の理事とも共謀する等特段の事情がなければ、原告に対して不当な処分を行うことはできないわけである。したがって、この点においても、原告のいう共謀と病院の原告に対する処分との間には、相当因果関係が存しない。

(三) 病院の理事会が原告の処分を決したのは、当時の各理事において、直接自分たちに向けられた原告の常軌を逸する病院に対する反抗(敵対行為)が、病院の秩序維持を考えたとき、もはや放置し得ないほどに達していたことを重視し、さらに、原告が従業員に対して故なく圧迫や嫌がらせ等の非行を続け、これが病院の秩序を著しく乱したと判断したことによる。

三  被告らの抗弁

1  消滅時効の援用

(一) 仮に、被告らに不法行為責任があるとしても、原告が被告らの不法行為として主張する最も遅い時点の行為は、昭和五四年二月二四日の苦情処理委員会の再具申書の提出ないしは同年二月二八日の河合理事長との面談であるから、右各日時から三年を経過した昭和五七年二月二四日若しくは同年二月二八日をもって、原告の損害賠償請求権は時効により消滅した。

(二) 仮に、原告が右(一)の時期に被告らの加害行為なるものを認識していなかったとしても、原告は、前異議事件における昭和五四年七月一二日付け準備書面あるいは同五五年五月一九日付け準備書面において、本訴と同一内容の被告らの加害行為があったと主張しているから、右各日時から三年を経過した昭和五七年七月一二日若しくは同五八年五月一九日をもって、原告の損害賠償請求権は時効により消滅した。

(三) 弁護士費用については、報酬金支払契約締結のときから消滅時効が進行すると解するとしても、訴え提起前に訴訟進行を弁護士に委任したときは、第一審の報酬金支払契約は、特段の事情のない限り、右訴え提起までに締結されたものとみるべきである。そして、本件においては、前異議事件及び懲戒処分無効確認等請求事件について、原告は、成田薫弁護士及び成田清弁護士との間においては、本件で証拠として提出されている同弁護士らの名前が出ている右事件関係の最も古い書面(証拠略)の日付である昭和五五年五月一九日以前に、また、山田幸彦弁護士との間においては、同様の最も古い書面(証拠略)の日付である昭和五六年五月一八日以前に、それぞれ報酬金支払契約を締結しているものとみるべきである。そうすると、原告が主張する弁護士費用は、遅くとも右各時点から三年を経過したことにより、時効消滅した。

2  損害の補填

原告は前異議事件における和解において、原告が本件解雇処分を受けなければ得られたであろう給与・賞与・退職金等一切の逸失利益と精神的待遇面の補償(慰藉料)等の支払を病院に求めた。そして、結局、病院は、原告の要求するように、原告が在職中に原告と同一の地位にあり、同一水準の賃金を得ていた矢田孝好と同一基準で賃金及び退職金等を算出し、既に仮処分決定に基づき原告に支払われていた仮払金合計三三三五万八七〇一円のほかに、差額として二七一六万四〇〇〇円を支払うことにした上、原告のその他の諸要求を考慮して、更に右金額に四三三万六〇〇〇円を上乗せし、この合計三一五〇万円を和解金として支払った。

このように、原告は、病院と和解する際、原告が損害と考えた一切合切を原告なりに経済的に評価して請求し、それに基づいて病院と交渉して、適切な賠償額を合意し、総額六四八五万八七〇一円もの金員を病院から取得しているから、原告に生じた一切の損害は病院によって賠償されたものというべきであり、原告には、現在被告らに請求すべき損害は存しない(原告が過失相殺される余地が十二分に存したことを考えると、原告がそれ以上の金員の支払を求めることは、余りにも過大な要求であるといわなければならない。)。

3  権利の濫用

仮に、原告に前記和解金で補填されない損害があるとしても、原告は、右和解において、前記のとおり、一切の損害の賠償を求め、その結果、仮処分に基づいて受領していた仮払金を含めて総額六四八五万八七〇一円もの金員を取得した。また、原告は、前記地位保全仮処分事件、前異議事件及び地位確認等請求事件等を追行し、それらの審理の中で、本件と同一の主張や供述を繰り返していたから、右各事件と平行して、事実上併合の形で被告らに対して本件のごとき訴えを提起しこれを追行することは容易であったのに、こうした行為に出なかった。そして、原告は、右和解に被告甲野や被告早川が同席していたのに、同被告らに対し、病院への慰藉料請求は撤回するが同被告らに別途これを請求するなどとも宣明していなかった。ところが原告は、右別事件が終了するや、直ちにこれら別事件と同一の理由を構えて本訴を提起した。

このように、別事件において総額六四八五万八七〇一円もの金員を病院から取得した原告が、当事者が異なるとはいえ、別事件が終了するや否や、被告らに対して、更に高額の損害が未払いであるなどとしてその支払を求めることは、信義に反する不当な要求であり、権利の濫用として許されない。

四  抗弁に対する原告の認否及び反論

1  抗弁1は争う。

(一) 民法七二四条の消滅時効は、被害者が加害者に対し請求権を行使することが可能となったときから期間を進行させるものであるところ、ここに権利行使が可能であるとは、行使に着手すべきことを期待し得る状態を前提にするというべきである。本件において、原告は、前異議事件や懲戒処分無効確認等請求事件に関する主張準備やその打合せ、証人審問の打合せ、疎明資料の作成及び支援要請などに精一杯で、被告らに対する損害賠償請求訴訟を提起する余裕は全くなかったから、原告に右損害賠償請求権の行使に着手すべきことを期待できなかった。そして、これを期待できるのは、病院との和解が成立したときからである。それゆえ、消滅時効は、このときから進行するとみるべきである。

(二) さらに、原告が加害者を知ったのは、昭和六一年七月二日である。すなわち、原告は、同日、岐阜市民病院において、高瀬正隆から、原告の処分に至るまでの被告甲野を含む病院の動きを聞いて、被告らの不法行為を確実に知った(同人は、その二日後に死亡したが、死期の迫っているのを知って、原告に真相を告白した。)。原告は、確かに被告ら主張の準備書面を提出した時点で加害者を推測していたが、それだけでは加害者を知っていたとはいえないのであり、原告が加害者に対する賠償請求が可能な程度にこれを知ったのは、右高瀬から経過を聞いた時点である。

(三) 不法行為による弁護士費用の損害賠償請求権の消滅時効は、当該報酬の支払契約を締結したときから進行する。原告は、前異議事件の和解が成立した昭和六二年七月一五日後の同年八月始めごろ、代理人と報酬契約を締結し、山田弁護士に対しては同年八月八日に二〇〇万円を、成田弁護士に対しては同年八月二四日に五〇万円をいずれも報酬として支払ったから、消滅時効は完成していない。

2  抗弁2について、原告が病院との和解により本件解雇をめぐる一切の問題を解決したとの主張は争う。

原告は病院との間では和解を成立させたが、被告らに対する責任追求は別であり、原告が被告ら主張の態度を示したことはない。右和解金中には、慰藉料、弁護士費用及び支払時期を遅れた給料の利息相当分等の損害は含まれていない。なお、病院は原告に対し、計画的に不当な本件解雇をし、被告らは原告に対し、共謀して不法行為に及んでいるから、過失相殺が問題となる余地はない。

3  抗弁3は争う。

五  再抗弁

被告らは、病院をして、労働者として最も重要な原告の労働契約上の地位を侵害させた。そして、原告が被告らに対し、解雇事件の紛争が解決するまでは損害賠償請求権を行使できる状況になかったことは前述したとおりである。しかも、被告のうちには、原告と病院の訴訟において、原告の損害賠償請求権の行使を事実上妨害した者がいる。それにもかかわらず、原告がようやく権利を行使することが可能となるや、消滅時効を援用するのは、著しく信義則に反し、権利濫用として許されない。

六  再抗弁に対する被告らの認否

争う。

第三証拠関係

本件記録中の証拠に関する目録の記載を引用する(略)。

理由

一  請求原因中、事実欄の二項1(一)に掲記した事実は当事者間に争いがない(ただし、請求原因1の被告大槻が医局長になった時期、同3(一)の原告主張内容を記した書面の形式及び右書面を交付した主体を除く。)。

二  そこで、まず被告らの時効の抗弁について判断する。

1  (証拠・人証略)並びに弁論の全趣旨によると、次の事実を指摘することができる。

(一)  原告は、成田薫弁護士と成田清弁護士を代理人として、病院の河合達雄理事長に宛た昭和五四年四月三日付け内容証明郵便(証拠略)により、本件解雇処分の撤回等を求めているが、そのなかで原告に対する解雇処分は「貴病院のなかの卑劣な一部手輩の何か為にせんとする陰険な策謀によるものと思われます」と記している。そして、原告は、本人尋問において、右一部手輩とは、被告甲野とその息のかかった者を指したもので、本訴の被告がこれに含まれていることを認める趣旨の供述をしている。

(二)  前記昭和五四年ヨ第一七六号仮処分事件において、原告の代理人あ(ママ)った成田薫弁護士が提出した昭和五四年六月四日付け準備書面(証拠略)には、「本件不当解雇の黒幕は甲野専務であって、同人がその腹心の部下をつかってその野望を達成せんとして(後略)」「甲野専務は、(中略)かねて腹心の部下として寵用していた野津庶務主任に苦情処理委員会へ(証拠略)にみるような全く理由にならない提訴をさせ、これを足場として本件一七項目にわたる非難項目をデッチあげた」との記載がある。

(三)  前異議事件において、原告の代理人であった成田薫弁護士と成田清弁護士が提出した昭和五四年七月一二日付け準備書面(証拠略)には、「本件解雇の背後には甲野専務の野望が秘められている。」「本件解雇は甲野専務がついにその野望を露わにして打った最後の手段であった」「甲野専務は、(中略)かねてからの腹心である野津庶務主任と謀り同人から債務者病院の苦情処理委員会に提訴させ(証拠略)、この委員会を足場にどのような些細なことでも、どんな古いことでも委細構わずかき集めさせた」「本件解雇が債務者病院における甲野専務一味の策動による不当解雇であることは明らかである。」とあり、原告が本訴で主張している経過にそう記述が存する。

(四)  前異議事件において、前記成田弁護士が提出した原告の昭和五四年一〇月三一日付け準備書面(証拠略)には、本訴で原告が主張しているように、被告甲野を中心に原告に対してされたとする不当行為が列挙され、「野津庶務主任が甲野専務の意のままに犬馬の労をとるのは当然である」とか「その野津庶務主任が本件不当解雇の口火となった苦情処理委員会への当初の提訴者であったことが大いに注目されなければならない」などとの記載がある。

(五)  その後、前異議事件の昭和五五年三月二七日の期日において、病院から苦情処理委員会の議事録(証拠略)等が提出されたが、その後に原告が前記代理人により提出した同年五月一九日付け準備書面(証拠略)には、病院側から労働協約の一部と右苦情処理委員会の議事録が提出されたことに基づいて、「その議事録の内容を検討してまったく唖然とした」「内心大方こんなことではないかと、一応、予想していたことではあったが、この議事録を一見して、その調査のあまりにも一方的なのには言うべき言葉をしらない。まるで調査は何もしないで、結論を出している」「もし債権者本人(原告)の弁明や関係者の証言を聴くことが病院でなすべきことだとするならば、苦情処理委員会が、債権者のきびしい処分を決議したことは、あまりにも公正を欠き、苦情処理委員会としてあるまじき不当な措置である」「この議事録をつぶさに検討すれば、甲野専務の意をうけた野津や高瀬らの画策がおよそ推断しうるであろう。苦情処理委員会のこのような決議があれば、甲野専務が理事会にその重い腰をあげさせるのに好都合だったからである」との記載がある。

(六)  その後も、前異議事件において、前記成田弁護士が提出した原告の昭和五五年八月六日付け準備書面(証拠略)及び右成田弁護士と山田幸彦弁護士が提出した原告の昭和五六年五月二〇日付け準備書面(証拠略)には、原告が本訴で主張するのと同様の事実関係が記載され、「何れにしても、かような野津の俄に開き直った背景には、専務と早川、それに高瀬課長、更には労組委員長等の謀議があったことは、その後における苦情処理委員会の手続の経過からみても、まず疑う余地はない」とも記されている。

(七)  原告は、本訴においても、先に事実欄に摘示したとおり、昭和五四年当時、病院内は事務長を兼務する被告甲野の支配体制が確立されていたとし、苦情処理委員会の委員は、被告早川、同土田、同大槻及び同奥村を含めて全員が被告甲野の意のままになる存在であり、こうした実態に着目すれば、被告らの共謀によって苦情処理委員会の決定が意のままになることは明らかであると主張し(昭和六二年一二月二四日付け準備書面)、こうした被告甲野とその余の被告らの関係及び苦情処理委員会の実態は、「病院の職員にとっては公知の事実であるといってよい」と陳述している(昭和六三年五月一二日付け準備書面)。

2  前記一の事実及び右に指摘したところを併せると、原告は、遅くとも、前異議事件において、病院側から苦情処理委員会の議事録等が提出され、これを検討した上、(証拠略)の準備書面を提出した昭和五五年五月一九日の時点において、本訴が原告が主張するところの不法行為とその加害者が被告らであることを十分認識していたものと認めることができる。

原告は、原告が加害者を確知したのは、高瀬正隆から原告の処分に至るまでの被告甲野を含む病院の動きを聞いた昭和六一年七月二日であると主張し、(証拠略)(内藤きみの作成の陳述書)、(人証略)及び原告本人尋問中には、右主張にそう記載及び供述が存する。しかしながら、右各供述には、原告が高瀬から聞いたとする日にちやその際の状況について前後一貫しない点や相互に齟齬する点があり、また、右内藤は、本件解雇以降原告を積極的に支援していて、「宮内裁判の名誉回復と首きりの補償をきちんと着け、悪かったと云って謝罪せんと、天罰をうけます」などと記載した病院理事長宛の書面を作成している者であること(証拠・人証略)などを勘案すると、(証拠略)と内藤及び原告の供述は、そのままには採用し難い。そして、前記1で指摘したとおり、原告において、既に昭和五四年六月ごろから同五五年にかけて、裁判所に提出し、病院の事件関係者として当然被告らの目に触れるはずの前異議事件の準備書面中で、明確に被告甲野、同野津のほか被告早川を含む苦情処理委員会の委員らの不正を指弾していることに加えて、原告が昭和六一年二月一二日付け「報告書」と題する裁判所宛の書面(証拠略)においても、「この宮内裁判は、甲野専務理事(現副理事長)の仕掛人(No1)、そして早川会計課長(現事務長兼会計課長)仕掛人(No2)、更に磯野正雄、小川信次、土田博氏等乙中一派と公認されていた者達の「最終報復」である事を主訴として続けて参りました」と記述していることを勘案すれば、原告がその主張の不正行為の加害者を知ったのが昭和六一年七月二日であるとの事実は認め難い。

3  次に、原告は、原告が前異議事件及び解雇無効確認等請求訴訟の準備等に忙殺されていて、病院と和解が成立するまでは被告らに対する損害賠償請求権の行使に着手することを期待し得なかったと主張し、(証拠略)を提出するが、そうした事情は、権利行使に当たっての事実上の障碍の範疇に属するものにすぎないのみならず、原告は、当時、本訴と争点を共通にする前記仮処分事件、前異議事件及び右解雇無効確認等請求訴訟等を追行していたのであるから、被告らに対する本訴のような損害賠償請求訴訟を提起することを期待し得なかったということはできないのであって、いずれにしても、右主張は採用できない。

4  また、原告は、前異議事件の和解が成立したのちの昭和六二年八月初めごろ代理人と報酬契約を締結し、山田弁護士に対して同年八月八日に二〇〇万円を、成田弁護士に対して同年八月二四日に五〇万円をそれぞれ報酬として支払ったから、右弁護士費用については、消滅時効は完成していない旨主張する。しかしながら、報酬請求権は、訴訟代理を業とする弁護士の生計の基盤であるから、訴え提起前に訴訟追行を弁護士に委任したときは、第一審の報酬金支払契約は、特段の事情のない限り、右訴え提起までに締結されたとみるべきであり、また、訴え提起後第一審の審理の途中において弁護士に委任したときは、第一審の報酬金支払契約は、特段の事情のない限り、右委任時に締結されたものとみるべきである。

これを本件についてみるに、原告は、成田薫弁護士及び成田清弁護士に対しては、弁護士費用として二三一万円を支払ったと主張しているところ、右八月二四日に支払ったという五〇万円は、その二二パーセント弱にすぎず、また、原告は、山田弁護士に対しては、弁護士費用として四二五万円を支払ったと主張しているところ、右八月八日に支払われたという二〇〇万円は、その約四七パーセントにすぎないのであって、その余は、いずれもそれ以前に支払われていることになる。そして、他に特段の事情は認められないから、前記和解後に報酬金支払契約が締結されたとする原告の主張は採用できず、原告主張の弁護士費用については、成田薫弁護士、成田清弁護士及び山田幸彦弁護士の名前が準備書面に現れる最も古い時期である昭和五六年五月一八日(<証拠略>)以前に、既にそれぞれ報酬金支払契約が締結されたものとみるべきである。

5  さらに、原告は、被告らが消滅時効を援用することが信義則に反し、権利の濫用であると主張するが、本件において、被告らの消滅時効の援用を権利の濫用とする事情は認めることができない。

6  そうすると、被告らに原告主張の不法行為責任があるとしても、本訴が提起されたのが昭和六二年八月二八日であるから、民法七二四条により、原告が本訴で被告らに対して請求する損害賠償請求債権は時効により消滅していることが明らかである。

三  以上の次第で、更に判断するまでもなく、原告の被告らに対する請求は理由がない。

(裁判官 三宅俊一郎)

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